交響曲第2番ハ短調 ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団
1872/77 Mixed Versions. Ed. Robert Haas [1938]
Guenter Wand, Koelner Rundfunk-Sinfonie-Orchester. 5/12/81
58:57 - 19:07 15:42 7:33 16:05
Sony Music Entertainment CD set 88691911552(リンク先と同演奏別商品)
ブログを始めて以来この第2番は3巡目。
「この曲どこがいいのかよくわからん」状態をそろそろ脱しなければ、と焦ってきた。
何をどうしたらいいかわからないので、この曲にプログラム(標題。後付けなので「ポストグラム」というべきか)を与えることを目標にして耳を傾けてみた。
というか、このブログそのものが「ブルックナー標題音楽化プロジェクト」みたいなものになりつつある。
成果を発表しよう。
交響曲の全体と各楽章にタイトルを付けたプログラムだ。
交響曲第2番「不満」
第1楽章「発生」
森林に不満成分が発生する(第1主題)。
突然湧いて出る舞曲(第2主題)が一時的に気を逸らすが、その雰囲気のまま続くオスティナート(第3主題)はやがて不満に転じ、不満成分は増幅されていく。
不満と楽しい気分の脈絡のない交代は、人知を超えた自然の分裂性を表わしている。
第2楽章「沈殿」
不満成分は潜勢化し、ときおり苛立つことはあるが、その本性を内に秘めたまま静かに蓄積される。
第3楽章「沸騰」
不満成分が活性化し、森の閉じた系の中で暴れ回る。
トリオは一転してさわやかな音楽となり、沸き立った不満に拘泥しない自然の非人格性、多相性を表現する。
第4楽章「放出」
活発化した不満成分は、助走が付くことにより勢いを得てついに脱出速度に達する(第1主題)。
不満のダイナミックな放出運動とそれがもたらすカタルシスとが代わるがわる手を変え品を変え描かれる。
ちょっとブラームスっぽい、非ブルックナー的にダサいところがある。
初期作品ならではのご愛嬌だが、自分に合うフィナーレの作り方がまだ開発途上にあったということだろう。
以上がこの交響曲のプログラムだ。
出来がいいとは言えないが、今はこんなところでがまんしよう。
ただ、プログラ厶の基体あるいは場面として「森林」や「自然」を当然のように想定することについては、あらためて考えてみる必要がある。
2つの意味で。
1つは、ブルックナーの曲がなぜそういうイメージと結びつくのか、という一般的な問題。
トレモロによる原始霧とかブルックナー・リズムとか、それにオーストリアの田舎のイメージのような外的要因もある。
これはこれで考える必要がある。
もう1つは、この第2交響曲に限った話だ。
[※警告※ 以下にはブルックナー信者の心証を害する可能性が高い内容が含まれています。ブルックナー信者の方はお読みにならないでください。]
わたしは第1楽章第2主題が気になってしょうがない。
奥深い美と神秘を兼ね備えたブルックナーの多くの歌謡主題とちがって、耳に心地よいけど薄っぺらくて俗っぽいところが、ブルックナーらしい「自然」のイメージと結びつかないのだ。
ブルックナーの伝記的な記事は、読んでいてあまり楽しいものではない。
というかガッカリさせられることが多い。
何の本で読んだか忘れてしまったが、彼は舞踏会でダンスを踊ったパートナーの名前をいちいちメモに残していて、ある名前には「ケチ」という注記まであったそうだ。
当時の舞踏会というのは、今のキャバクラのような場だったんだろうか。
それはともかく、やってることはただの変態エロオヤジとしか思えない(他人のことは言えないが)。
こんなことを書いたのは、第1楽章第2主題が田舎の舞踏会でパートナーをとっかえひっかえしながらウキウキ踊るオッサンを想像させるからだ。
ダンスの余韻が第3主題に引き継がれいつしか不満に変わっていく様も、パートナーにこっそり「ケチ」を付けるブルックナーの姿に重なる。
というわけで、この交響曲のプログラムは、「自然」でなくおめでたく分裂気味のエロオヤジを主人公に据えるべきなのかもしれない(そんなの聴きたくないけど)。
CDの演奏は、特に第4楽章第1主題など力感の表現がさすがヴァントだと思う反面、力づくオンリーで押していくところや奏者が勢いにまかせて乱暴に吹くところがあったりして、後年のヴァントとちょっと違うなあ、とも感じた。
前回聴いたほぼ同じ時期のマタチッチのスプラフォン録音と比べてしまうことになり酷かもしれないが、録音はよいとは思えない。