交響曲第3番ニ短調 ヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団
1889 Version (aka 1888/89) Ed. Leopold Nowak [1959]
Herbert Kegel, Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig. 6/6/78
52:21 - 19:39 13:53 7:02 11:45
ODE Classics CD ODCL SPECIAL EDITION I - ODCL-1012(リンク先と同演奏別商品)
第3交響曲、3巡目にしてようやく1989年稿(第3稿)が回ってきた。
この交響曲の演奏・録音で抜群にポピュラーなバージョンで、わたしが聴いてきたのも大方がこの稿での演奏だ。
昔からけっこう好きな曲だが、その本質について考えたことはなかった。
その考察をおこなう。
第1楽章、とにかくカマしている。
昔よりもっと前の昔々、クラシック音楽にただ心躍る美しいメロディを求めていた純朴でおバカな高校生が、「なんじゃこりゃ」と頭を抱えたぐらいのカマしっぷりだ(長じて、聴き慣れたのと、2楽章以下が気軽に楽しめるのとで、だんだん好きになった)。
弦楽器群の雨が降るような音型を背に、すごくヘンな第1主題がトランペットから始まり、勝手に高揚してついには高圧的なまでに膨れ上がる。
あまりにヘンなので、天から降ってきているものも酸性雨か苛性ソーダか(ただのイメージです、化学のことは何も知りません)、とにかくただの雨とも思えない。
聴者は、降りしきる雨に閉ざされ、巨大で抑圧的な何者かに支配された、不幸な世界にいきなり投げ込まれるのだ。
トラウマになりそう。
そこに慰めに満ちた美しい第2主題が続く。
まるで腐海の底でナウシカが見出した清浄の地のような趣きだが、それが清浄でありながら蠱惑的でもあるところがブルックナーのブルックナーたるゆえんである。
第1楽章はこのディストピアの時と慰めの時とが入れ替わりつつ進行する。
両者の関係をどう解するか、それが問題だ。
腐海の底にあったのは未来への希望だったが、ブルックナーの慰めはどうなのか。
この問いは次楽章以降に持ち越される。
第2楽章は打って変わってひたすら美しい。
陰鬱な雨の痕跡すらない。
穏やかに流れる時の中で、繁茂する植生が照り返す陽光と静かな夜の闇が強いコントラストを作り出す。
陰影深い自然の姿が凝縮された一枚の絵の前に立って、過ぎ去りし夏の日々の出来事を噛みしめるかのようだ。
第3楽章、アルコとピチカートの水際立った応答で不穏に始まるスケルツォ。
何が起こるかと期待が高まるが、第1部途中で早くもゴージャスだけどありきたりな長調に転じ、楽天的な性格が明らかになる。
以下、スケルツォ第2部もトリオも楽しく過ぎていく。
第4楽章、再び風雲急を告げる。
今度こそ何が起こるかと身構える。
しかし、のどかな第2主題に入ると、風雲はただの風雲、何が起こるわけでもなかったことが今回も早々に明らかになる。
突然蘇った記憶の生々しさに圧倒されるような第3主題も、禍々しいものではない。
フラッシュバックというよりむしろ啓示に近い。
そんなわけで、美しい第2楽章、スリル&サスペンスのちリラックスの第3楽章、第4楽章は、第1楽章での対立とは関係がなさそうだ。
暫定の結論として、この交響曲は「ディズニーランド交響曲」と名付けていいのではないか、と考えた。
※ この交響曲は、こんな理屈を考える前から、わたしの中でなぜかディズニーランドとの連想が働いていた。もしかしたら以前誰かがそういうことを書いているのかもしれない。もしそうならごめんなさい。オリジナリティはそちらにあります。
来場者に楽しんでもらうことだけを目指して楽匠ブルックナーが腕を揮った、楽しいアトラクションが並ぶテーマパークということだ。
第1楽章は、UX設計をやり損ねてちょっと刺激が強すぎてしまったお化け屋敷、という見立て。
ばらばらのアトラクションが並立するテーマパークというこの解釈には、ディズニー嫌いのブルックナーファンとブルックナー嫌いのディズニーファンを等しく不快にさせるという問題はある。
ただ、実はわたしディズニーランドには一度も行ったことが無い。
すべて想像で話をしているだけなので、まともに相手にして怒らないで欲しい。
この解釈にはもう1つ看過できない大きな難点がある。
それは第4楽章のコーダだ。
ここでブルックナーは、第1楽章の第1主題を召喚し、長調に転じて堂々の大勝利めでたしめでたしで締めくくっている。
交響曲なんだから当たり前かもしれないが、やっぱり話は第1楽章から続いていたのだ。
でもねブルックナー先生、第1楽章が終わって以来、あんた何にもやってないじゃん。
第2楽章からここまで、夏の思い出を作ったり、作り物のスリルで驚かせたりと散々遊び散らかしてきて、いきなり取ってつけたように「最初の問題はめでたく解決」なんて言われたってねえ。
というわけで、第4楽章コーダをどう考えるかが次のフェイズでの課題となる。
この課題をクリアするのに必要なのは、「闘争と勝利」というベートーヴェン的図式からの脱却だと思う。
ブルックナーはあの抑圧的な第1楽章第1主題と闘わない。
第2主題は第1主題と陣取りをしていたのではなく、ただそこにあって憩いを提供してくれただけなのだ。
人の営みをも含めた自然だ。
憂鬱な中に慰めもある雨の日々を経て、さらに陽光降り注ぐ日々を経て、最後に稲穂垂れる日がやってきました、ということだ。
人間がそこでやるのは、雨や陽射しに耐えること、農民であれば収穫の日のために働くこと。
戦いは無し。
では第3楽章や第4楽章での作り物のスリルは何なのか?
すぐ底が割れるフェイクサスペンスとそれに続くお楽しみが表現しているものと言えば、お祭りの出し物以外の何物でもない。
そう考えれば、第3楽章トリオ、第4楽章第2主題のダンスは何ら不自然なくそこに収まることができる。
第1楽章は鬱陶しいが五穀豊穣に欠かせない梅雨を回顧し、第2楽章は同様に稔りに必要な輝かしい夏の日々を回想する。
第3楽章と第4楽章は秋祭りのスリリングで楽しい遊びまたは儀式を描き、最後に豊作めでたしを謳歌して全曲を締めくくる。
この交響曲を「五穀豊穣祭交響曲」と名付けよう(各種用語は適用する地域の気候・植生により適宜置き換えられたい)。
演奏は、第1楽章は第1主題などケーゲルらしくちょっと前のめりで寸詰まり感がある。
第2楽章はこれもケーゲルらしく速めのテンポだが、きりりと美しい。
第3楽章、第4楽章もフツーに楽しめるし、何か特段の特徴がある演奏とも思わないが、悪くない。