交響曲第6番イ長調 セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1881 Version. Ed. Robert Haas [1935]
Sergiu Celibidache, Muenchener Philharmoniker. 26-30/11/91
63:33 - 17:05 21:44 8:13 16:14
ソニーミュージック CD SICC2009
まる1年留守にしてしまった。
この謎深い曲をどう扱ったものか、逡巡を繰り返すうちに倦んでそのうち忘れていた。
誰が困るわけでもないからいいんだけど。
さて、思うに世の中のみなさんはこの第6交響曲が意味するところをちっともわかっていない。
まずそれは美ではない。
チェリビダッケが言うように、美はただの撒き餌だ。
単刀直入に行こう。
あえてこの交響曲の全体に標題を付けるなら「人新世交響曲」だ。
「人為」に対する「自然」を一貫してテーマにしてきたブルックナーにとって、これは特異なケースだろう。
でも、人類の営みをも悠久の時間の中に置き、いわば自然の相のもとに観るという点では、ブルックナーのブルックナーたる所以を外れていない。
人新世を特徴づけるもの、つまり自然を改変し破壊する人為の最たるものといえば、産業そして戦争だ。
第1楽章の第1主題は軍靴の響き以外の何物だろう?
そして、第1楽章がアーミーなら、水際立った第3楽章はネイビーだ。
でもまあそこらへんはどうでもいい。
この交響曲最大の問題はいうまでもない、第4楽章だ。
この音楽を聴いてただ「美しい」とか「輝かしい」だけで済ませようなんて、どうかしている。
たぶんブルックナーが描いた最もおぞましいものがここにはある。
フィナーレは、すべての悪しきものの起源を物語るような、寄る辺ない不安のしらべに始まる。
続いて金管のファンファーレに導かれてギザギザと精力的な第1主題が現れ、やがて禍々しい姿に形を変える。
この主題、再現部では思わぬところから不意打ちのように跳び出して暴れ回り、さらにコーダにもう一度登場して全曲を締めくくる。
再現部で、不死身の生命が蒸気機関(文明あるいは産業とその推進力の象徴)を思わせる入り組んだ醜いリズムを刻むところは、チェリビダッケならではだろう。
ここに描かれているのは、人類の歴史を力強く衝き動かしてきたもの、しかしわたしたちの視野をすり抜ける不気味なもの、盲目的で制御不能な文明のイドだ。
コーダでは「それ」が高らかに勝利を歌い上げて曲が終わる。
神も仏もない。
フロイトよりはるか以前、ニーチェとほぼ同じ時期にイド(エス)を主題化した慧眼、それに鮮明な形象を与えた手腕には驚きを禁じえない。
ひょっとしたらワーグナーに勧められてショーペンハウアーでも読んでたか(無さそう)。
余談だが、そして時代はずっと下るが、同じように(というかまったく別の仕方で)イドを主題化したのが画家のデ・キリコだと思う。
デ・キリコの絵画に見られる長い影も、他人と並んだ自画像も、2頭あるいは2人並んだ馬や人物も、のっぺらぼうも、マネキンも、屋外の場違いな家具も、紐でつながれた黒い太陽も、緑色の空やゆがんだ遠近法も、すべてイドの出現なのだ。
デ・キリコのイドは、現われ方だけでなくその意味も一様ではない。
初期の影は不安とともに詩情を湛えているが、後の作品のイドには美しさなどなく、古代の神殿が遺跡に変わっても生き続けるほどに強靭で、無個性というよりそもそも個体性を欠いている。
古典主義期には意識的自我ばかりでイドが姿を消したような絵もあるが(一本の線が引かれるだけで愉悦が生まれるピカソとちがって、デ・キリコの古典回帰時代の作は本当につまらない)、手を変え品を変え様々な仕方で出現するイドと自我とのせめぎ合いこそ、デ・キリコの画家としての生涯を貫く線だと思う。
本題に戻ると、ブルックナーにとって第6交響曲はあくまで例外であり、イドは生涯のテーマではなかった。
そして、たぶんブルックナーは自分が何をやっているかの自覚という点でもデ・キリコに及ばない。
でも、ブルックナーの方が芸術作家として一枚上手なおかげで(撒き餌がうまいということだ)、表現が整理されテーマがよりビビッドに描き出されている。
人の知性のあり方は一つではない、というか不思議な知性の働きがあるものだ。
チェリビダッケとミュンヘン・フィルのコンビが第6交響曲を取り上げたのはこの1991年11月の1度きりなんだそうだ(ということは、EMI の盤(未聴)と同じ演奏会の録音ということになる、といっても同じプログラムを何日か続けてやってるようだけど)。
チェリビダッケにしては常識的なテンポで、演奏時間で比べても第2楽章以外は他の指揮者と変わらない。
録音は、金管の強奏も余裕をもって破綻なく録られている反面、弱音は貧弱で、弦の音が平板で魅力に乏しい(ミュンヘン・フィルのせいか録音のせいかわたしにはわからない)。
交響曲第5番変ロ長調 ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1878 Version Ed. Robert Haas - No significant difference to Nowak [1935]
Guenter Wand, Berliner Philharmoniker. 12-14/1/96
77:14 - 21:31 16:26 14:20 24:57
BMG CD 09026-68503-2
たぶんはじめて買ったブルックナーのCD(高校生のときにベームの3番と4番のLP盤を買ったことがあったがCDはこれがはじめて)。
印刷ミスで「BRUCKNER・SYMPHONY No.6」となっている箇所があるという理由で、大阪梅田のタワーレコードで安売りされていた。
買った、聴いた、そしてブルックナーにはまった。
久しぶりに聴いてみたが、やっぱりすごいなあ。
終楽章のおしまいは金管ブカブカやりすぎだと思うが、今でもこの曲でこれ以上に好きな演奏はない。
第5番という限定を外しても、一番好きなブルックナー演奏の1つだ(前回取り上げたテンシュテットやこのブログを始めたせいで良さを知ったマタチッチなど、他にも好きな演奏はある)。
ただ、標題化の対象としては取りつく島がない。
聴いていてワクワクするけど標題化できない。
「海」または「水」が切り口になるのではないかと思う。
森林に海が出現する、とか。
中央アジアで成立したとされる仏典「華厳経」には、「海印三昧」など海の比喩が多用されているという。
同じように、内陸国オーストリアのブルックナーの交響曲に海が登場したら、カッコイイんじゃないか。
次回以降の宿題にしよう。
* * *
余談だが、ベルリン・フィルなので再生時のオーディオの設定に気を付けよう。
テンシュテットのロンドン・フィルを聴いた設定のままこのCDを聴きはじめて、「あれ?なんだこれは」と悩んでしまった。
何とも鈍重な響きにショックを受け、かなり焦った。
この演奏ひいてはこの曲が嫌いになりかけたところで、イコイライザーをいじって低音を絞ったら、ちゃんと聴けるようになった。
交響曲第4番変ホ長調 クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
1880 (aka 1878/80) - Ed. Robert Haas [1936]
Klaus Tennstedt, London Philharmonic Orchestra. 11/4/84
70:45 - 21:00 17:47 9:59 21:50
これまでずっと、家にあるブルックナーの音盤のうちあまり聴いていないものを取り上げてきた。
もともと、自分が持っているCDを自分で整理して把握するために始めたブログなので、自然にそうなった。
しかし、やっているうちに演奏よりも楽曲を自分なりに理解することに関心が向いてきた。
何がいいかの見当すら付かない曲の演奏を云々したってしょうがないし(というかそもそも何も言うことが無いし)。
曲を知るという点では、馴染みのない演奏よりもこれまで親しんできた演奏や曲のよさをはじめて教えてくれた演奏の方がいいだろう。
そう考えて第4交響曲に選んだのが、このテンシュテットの東京ライブ盤。
それまで受け付けなかった第4楽章はこれを聴いて好きになった。
今もこの曲の一番好きな音盤だ。
ただ、今回聴き直してみて、楽曲の理解というか、このブログでこのごろやっているブルックナー標題音楽化プロジェクトには、あまり有効ではなかったと思う。
このすばらしい演奏を聴いていると、ブルックナーに標題を与える試み自体がくだらないことに思えてしまう。
第1楽章冒頭、音というより振動、楽音というよりバズ音という趣きのトレモロを背景に、第1主題の最初の動機が始まる。
トレモロと動機が音高を変えて膨らみながら繰り返されるうちに、身中にゾワゾワするものが湧き上がってくる。
2+3 のブルックナーリズムで音階が現れたところ(43小節)で、もう鼻の上の方がツーンとして涙腺が緩むのを感じる。
そこには意味も形式もない。
言語や映像など他の表象を経由しない「絶対音楽」は、純粋な形式美を愛でるものとされる。
この演奏はたとえば日の出のイメージとは無縁だと思う。
曲自体が標題音楽かどうかはともかく、経験としては、標題に媒介されない「絶対音楽」を聴いていると言っていいだろう。
でも、そこにある感動は形式美のような高尚なものではなく、原始的で身体的なものだ。
高電圧を帯びたような高い調子、大きな構え、侵すべからざる偉容。
なんでそう感じるのかはわからない。
呼吸が長くて深いからだろうか?などと推測してみる。
(人間離れした肺活量を想像するが、そもそも演奏で指揮者の呼吸が長いとか深いとかってどういうことだろう?)
結局なんでかわからないので、ただただ指揮者への尊崇の念が溢れてひれ伏したくなる。
この調子の高さが第1楽章のあいだずっと続く。
第2主題はシジュウカラの鳴き声を模したと言われるけど、この演奏では全然そんなふうに聴こえない。
高貴な武人が背筋を伸ばしややしゃっちょこ張って踊るみたいだ。
その後は、中間楽章もすばらしいが、やはり第4楽章がすごい。
特に冒頭の嵐、そしてコーダ。
ブルックナーはこの第4番にしてようやく彼らしいフィナーレの形を完成させたのだと思う。
演奏はそのことを十全に感じさせてくれる。
指揮者のことばかり書いたが、ロンドン・フィルがすごくいい。
FM東京による録音もすばらしい。
製造中止になっているのは残念。
マーラーに関心が無くテンシュテットにも縁が薄いわたしがなぜこのCDを買ったのか覚えていないが、自分の引きの良さを褒めてやりたい。
以下、余談。
この演奏を聴いていて、ベートーヴェンのエロイカ交響曲に似ていると思ったことがある。
調べてみたら、エロイカがこの交響曲の原型になっているという説もあるし、同じ変ホ長調だけど「関係を認めることはほとんどできない」と書いている本もある(ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン『ブルックナー交響曲』116ページ)。
いずれにせよ、わたしが似ていると思ったのはそういう音楽学的な話ではない。
たとえば、第1楽章第2主題の終わりのクレッシェンド(111-118小節)とエロイカの同じく第1楽章第2主題の後のピアニシモからクレッシェンドするくだり(99-108小節)。
リズムは違うけど、獲物めがけてまっしぐらみたいな心が似ている。
それで聴き比べてみて感じたこと。
肉弾相撃つ世界を渉り歩くベートーヴェンの英雄と並べると、ブルックナーのはお行儀が良すぎて英雄としてのリアリティがない。
というわけで、やはりブルックナーはベートーヴェンではないし、ベートーヴェン的なものさしを当ててみてもいいことはないのだ。
交響曲第3番ニ短調 ヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団
1889 Version (aka 1888/89) Ed. Leopold Nowak [1959]
Herbert Kegel, Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig. 6/6/78
52:21 - 19:39 13:53 7:02 11:45
ODE Classics CD ODCL SPECIAL EDITION I - ODCL-1012(リンク先と同演奏別商品)
第3交響曲、3巡目にしてようやく1989年稿(第3稿)が回ってきた。
この交響曲の演奏・録音で抜群にポピュラーなバージョンで、わたしが聴いてきたのも大方がこの稿での演奏だ。
昔からけっこう好きな曲だが、その本質について考えたことはなかった。
その考察をおこなう。
第1楽章、とにかくカマしている。
昔よりもっと前の昔々、クラシック音楽にただ心躍る美しいメロディを求めていた純朴でおバカな高校生が、「なんじゃこりゃ」と頭を抱えたぐらいのカマしっぷりだ(長じて、聴き慣れたのと、2楽章以下が気軽に楽しめるのとで、だんだん好きになった)。
弦楽器群の雨が降るような音型を背に、すごくヘンな第1主題がトランペットから始まり、勝手に高揚してついには高圧的なまでに膨れ上がる。
あまりにヘンなので、天から降ってきているものも酸性雨か苛性ソーダか(ただのイメージです、化学のことは何も知りません)、とにかくただの雨とも思えない。
聴者は、降りしきる雨に閉ざされ、巨大で抑圧的な何者かに支配された、不幸な世界にいきなり投げ込まれるのだ。
トラウマになりそう。
そこに慰めに満ちた美しい第2主題が続く。
まるで腐海の底でナウシカが見出した清浄の地のような趣きだが、それが清浄でありながら蠱惑的でもあるところがブルックナーのブルックナーたるゆえんである。
第1楽章はこのディストピアの時と慰めの時とが入れ替わりつつ進行する。
両者の関係をどう解するか、それが問題だ。
腐海の底にあったのは未来への希望だったが、ブルックナーの慰めはどうなのか。
この問いは次楽章以降に持ち越される。
第2楽章は打って変わってひたすら美しい。
陰鬱な雨の痕跡すらない。
穏やかに流れる時の中で、繁茂する植生が照り返す陽光と静かな夜の闇が強いコントラストを作り出す。
陰影深い自然の姿が凝縮された一枚の絵の前に立って、過ぎ去りし夏の日々の出来事を噛みしめるかのようだ。
第3楽章、アルコとピチカートの水際立った応答で不穏に始まるスケルツォ。
何が起こるかと期待が高まるが、第1部途中で早くもゴージャスだけどありきたりな長調に転じ、楽天的な性格が明らかになる。
以下、スケルツォ第2部もトリオも楽しく過ぎていく。
第4楽章、再び風雲急を告げる。
今度こそ何が起こるかと身構える。
しかし、のどかな第2主題に入ると、風雲はただの風雲、何が起こるわけでもなかったことが今回も早々に明らかになる。
突然蘇った記憶の生々しさに圧倒されるような第3主題も、禍々しいものではない。
フラッシュバックというよりむしろ啓示に近い。
そんなわけで、美しい第2楽章、スリル&サスペンスのちリラックスの第3楽章、第4楽章は、第1楽章での対立とは関係がなさそうだ。
暫定の結論として、この交響曲は「ディズニーランド交響曲」と名付けていいのではないか、と考えた。
※ この交響曲は、こんな理屈を考える前から、わたしの中でなぜかディズニーランドとの連想が働いていた。もしかしたら以前誰かがそういうことを書いているのかもしれない。もしそうならごめんなさい。オリジナリティはそちらにあります。
来場者に楽しんでもらうことだけを目指して楽匠ブルックナーが腕を揮った、楽しいアトラクションが並ぶテーマパークということだ。
第1楽章は、UX設計をやり損ねてちょっと刺激が強すぎてしまったお化け屋敷、という見立て。
ばらばらのアトラクションが並立するテーマパークというこの解釈には、ディズニー嫌いのブルックナーファンとブルックナー嫌いのディズニーファンを等しく不快にさせるという問題はある。
ただ、実はわたしディズニーランドには一度も行ったことが無い。
すべて想像で話をしているだけなので、まともに相手にして怒らないで欲しい。
この解釈にはもう1つ看過できない大きな難点がある。
それは第4楽章のコーダだ。
ここでブルックナーは、第1楽章の第1主題を召喚し、長調に転じて堂々の大勝利めでたしめでたしで締めくくっている。
交響曲なんだから当たり前かもしれないが、やっぱり話は第1楽章から続いていたのだ。
でもねブルックナー先生、第1楽章が終わって以来、あんた何にもやってないじゃん。
第2楽章からここまで、夏の思い出を作ったり、作り物のスリルで驚かせたりと散々遊び散らかしてきて、いきなり取ってつけたように「最初の問題はめでたく解決」なんて言われたってねえ。
というわけで、第4楽章コーダをどう考えるかが次のフェイズでの課題となる。
この課題をクリアするのに必要なのは、「闘争と勝利」というベートーヴェン的図式からの脱却だと思う。
ブルックナーはあの抑圧的な第1楽章第1主題と闘わない。
第2主題は第1主題と陣取りをしていたのではなく、ただそこにあって憩いを提供してくれただけなのだ。
人の営みをも含めた自然だ。
憂鬱な中に慰めもある雨の日々を経て、さらに陽光降り注ぐ日々を経て、最後に稲穂垂れる日がやってきました、ということだ。
人間がそこでやるのは、雨や陽射しに耐えること、農民であれば収穫の日のために働くこと。
戦いは無し。
では第3楽章や第4楽章での作り物のスリルは何なのか?
すぐ底が割れるフェイクサスペンスとそれに続くお楽しみが表現しているものと言えば、お祭りの出し物以外の何物でもない。
そう考えれば、第3楽章トリオ、第4楽章第2主題のダンスは何ら不自然なくそこに収まることができる。
第1楽章は鬱陶しいが五穀豊穣に欠かせない梅雨を回顧し、第2楽章は同様に稔りに必要な輝かしい夏の日々を回想する。
第3楽章と第4楽章は秋祭りのスリリングで楽しい遊びまたは儀式を描き、最後に豊作めでたしを謳歌して全曲を締めくくる。
この交響曲を「五穀豊穣祭交響曲」と名付けよう(各種用語は適用する地域の気候・植生により適宜置き換えられたい)。
演奏は、第1楽章は第1主題などケーゲルらしくちょっと前のめりで寸詰まり感がある。
第2楽章はこれもケーゲルらしく速めのテンポだが、きりりと美しい。
第3楽章、第4楽章もフツーに楽しめるし、何か特段の特徴がある演奏とも思わないが、悪くない。
交響曲第2番ハ短調 ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団
1872/77 Mixed Versions. Ed. Robert Haas [1938]
Guenter Wand, Koelner Rundfunk-Sinfonie-Orchester. 5/12/81
58:57 - 19:07 15:42 7:33 16:05
Sony Music Entertainment CD set 88691911552(リンク先と同演奏別商品)
ブログを始めて以来この第2番は3巡目。
「この曲どこがいいのかよくわからん」状態をそろそろ脱しなければ、と焦ってきた。
何をどうしたらいいかわからないので、この曲にプログラム(標題。後付けなので「ポストグラム」というべきか)を与えることを目標にして耳を傾けてみた。
というか、このブログそのものが「ブルックナー標題音楽化プロジェクト」みたいなものになりつつある。
成果を発表しよう。
交響曲の全体と各楽章にタイトルを付けたプログラムだ。
交響曲第2番「不満」
第1楽章「発生」
森林に不満成分が発生する(第1主題)。
突然湧いて出る舞曲(第2主題)が一時的に気を逸らすが、その雰囲気のまま続くオスティナート(第3主題)はやがて不満に転じ、不満成分は増幅されていく。
不満と楽しい気分の脈絡のない交代は、人知を超えた自然の分裂性を表わしている。
第2楽章「沈殿」
不満成分は潜勢化し、ときおり苛立つことはあるが、その本性を内に秘めたまま静かに蓄積される。
第3楽章「沸騰」
不満成分が活性化し、森の閉じた系の中で暴れ回る。
トリオは一転してさわやかな音楽となり、沸き立った不満に拘泥しない自然の非人格性、多相性を表現する。
第4楽章「放出」
活発化した不満成分は、助走が付くことにより勢いを得てついに脱出速度に達する(第1主題)。
不満のダイナミックな放出運動とそれがもたらすカタルシスとが代わるがわる手を変え品を変え描かれる。
ちょっとブラームスっぽい、非ブルックナー的にダサいところがある。
初期作品ならではのご愛嬌だが、自分に合うフィナーレの作り方がまだ開発途上にあったということだろう。
以上がこの交響曲のプログラムだ。
出来がいいとは言えないが、今はこんなところでがまんしよう。
ただ、プログラ厶の基体あるいは場面として「森林」や「自然」を当然のように想定することについては、あらためて考えてみる必要がある。
2つの意味で。
1つは、ブルックナーの曲がなぜそういうイメージと結びつくのか、という一般的な問題。
トレモロによる原始霧とかブルックナー・リズムとか、それにオーストリアの田舎のイメージのような外的要因もある。
これはこれで考える必要がある。
もう1つは、この第2交響曲に限った話だ。
[※警告※ 以下にはブルックナー信者の心証を害する可能性が高い内容が含まれています。ブルックナー信者の方はお読みにならないでください。]
わたしは第1楽章第2主題が気になってしょうがない。
奥深い美と神秘を兼ね備えたブルックナーの多くの歌謡主題とちがって、耳に心地よいけど薄っぺらくて俗っぽいところが、ブルックナーらしい「自然」のイメージと結びつかないのだ。
ブルックナーの伝記的な記事は、読んでいてあまり楽しいものではない。
というかガッカリさせられることが多い。
何の本で読んだか忘れてしまったが、彼は舞踏会でダンスを踊ったパートナーの名前をいちいちメモに残していて、ある名前には「ケチ」という注記まであったそうだ。
当時の舞踏会というのは、今のキャバクラのような場だったんだろうか。
それはともかく、やってることはただの変態エロオヤジとしか思えない(他人のことは言えないが)。
こんなことを書いたのは、第1楽章第2主題が田舎の舞踏会でパートナーをとっかえひっかえしながらウキウキ踊るオッサンを想像させるからだ。
ダンスの余韻が第3主題に引き継がれいつしか不満に変わっていく様も、パートナーにこっそり「ケチ」を付けるブルックナーの姿に重なる。
というわけで、この交響曲のプログラムは、「自然」でなくおめでたく分裂気味のエロオヤジを主人公に据えるべきなのかもしれない(そんなの聴きたくないけど)。
CDの演奏は、特に第4楽章第1主題など力感の表現がさすがヴァントだと思う反面、力づくオンリーで押していくところや奏者が勢いにまかせて乱暴に吹くところがあったりして、後年のヴァントとちょっと違うなあ、とも感じた。
前回聴いたほぼ同じ時期のマタチッチのスプラフォン録音と比べてしまうことになり酷かもしれないが、録音はよいとは思えない。
交響曲第9番ニ短調 ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
1894 Original Version. Ed. Leopold Nowak [1951]
Lovro von Matacic, Czech Philharmonic Orchestra. 4-5/12/80
59:50 - 23:32 10:08 26:10
日本コロムビア CD COCO 70413
第1楽章冒頭の第1主題が徐々に全貌を現す3分で、もう聴衆の心を鷲掴みにする。
指揮者は出来合いの自然な流れに身を委ねず、オーケストラから出る音を聴きながらテンポと強弱を細かく動かす。
ぎこちないくらいだが、そこに生まれる臨場感がたまらない。
この演奏はマタチッチが持つ3つの顔を見せてくれる。
第1の顔、ギャングのボスのような風貌そのままに荒事が得意なこと。
ブルックナー演奏に欠かせない音量のコントロールが効いている。
第1楽章なら、まがまがしきボスキャラが降臨するような第1主題がそうだし、コーダもどこまで大きくなるのかと固唾を呑む。
第2楽章スケルツォは、荒事どころか悪漢の領域。
山賊の一団が軽快な足取りで隠密裡に配置に付き、突如地響きもろとも躍り出て、ついには咆哮のうちに狼藉の限りを尽くす。
マタチッチ第2の顔、「歌謡主題」と呼ばれる第2主題などでの和事が容貌に似合わず優美ですばらしいこと。
先日聴いた第7交響曲 は、両端楽章の第2主題に加えて、第2楽章全体、第3楽章のトリオと、和事の聴きどころが満載だった。
この第9番なら第1楽章第2主題。
にわか仕込みの知識だが、「荒事(あらごと)」と「和事(わごと)」は歌舞伎の立役の種類で、実は立役にはもう一つ「実事(じつごと)」という種類もある。立役 - Wikipedia
「誠実な人物が悲劇的な状況の中で苦悩しながらも事件に立ち向かう姿を描」く役柄なんだそうだ。歌舞伎事典:実事|文化デジタルライブラリー
マタチッチ第3の顔は、その実事に秀でていること。
この演奏の第3楽章がそれを示している。
第1主題の日の出を思わせる荘厳なファンファーレは、死期が遠くないと悟ったブルックナーが神の国の光を描いたんだろう、これまではそう思っていた。
天にとよむ大主
明けもどろの花の
咲い渡り
あれよ 見れよ
清らやよ
(「おもろさうし」)
今回、その光とはむしろこの世の光だったと気づいた。
日の出を迎えることはまた1日を生き永らえたということだ。
しかし次の日の出を迎えられるかはわからないし、いずれ迎えられなくなる日は来る。
悲哀と諦念、慰めにならない慰めが切々と語り続けられる中に出現するそのファンファーレは、現世の精華であり、そして現世そのものを象徴しているのだ。
アナログのライブ録音だが、漆黒の静寂から立ち上がるようなすばらしい音質。
何度も聴きたくなる。
交響曲第8番ハ短調 カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1890 Version. Ed. Leopold Nowak [1955]
Carl Schuricht, Wiener Philharmoniker. 7/12/63
70:45 - 13:38 13:46 22:17 20:28
Altus CD ALT 085
シューリヒトはあまり聴いたことがなくて、印象に残っているのはハスキルと共演したモーツァルト「ジュノーム」の丁々発止の終楽章ぐらい。
なのに、なんとなく「薄味」のイメージを勝手に持っていた。
イメージなので漠たるものだが、あえてパラフレーズすると、表現より形態重視の、インテンポで快速のスマートな演奏、という感じ。
この演奏は、快速という点は当てはまるが、結果的には薄味とはかなり違うものだった。
第1楽章、速い。
速いだけでなく彫りが深い。
疾風怒濤という言葉がぴったりだ。
緩急強弱の振幅もあり、ふつうの演奏に比べて情報量は落ちていないが、その速さゆえに情報の意味がまったく違うものに置き換えられて目の前にあるような、不思議な感じ。
第2楽章スケルツォも速い。
スケルツォはたとえ速くても第1楽章ほど異質な感じはしないのではないか、という予想が覆される。
ここでも他の演奏とは別種のゲームが目の前で展開されているような驚きがある。
あえて言うと、「トムとジェリー」的な整然としたドタバタの快楽はここでの重要な要素だと思う。
トリオは一転して遅い。
冒頭のネットリとしかもシラッとしたフレーズは、テンポのギャップのせいで特に印象的。
蛇女からいきなり浴びせられた冷笑のようで、ハッとする。
第3楽章も速いが、ここまで来ると慣れたのかあまり不思議感は無い。
この楽章はヴァントなどの演奏だと人界を離れた天上界あるいは異星で鳴り響く音楽のように感じることがあるが、この演奏では一つ一つのフレーズが等身大の人間のぬくもりを帯びて親しく感じられる。
終楽章も速い。
ブルックナーの交響曲は後期の作品ほど悲哀と荒涼の色が濃くなり、そのせいもあってわたしはあまり好きになれなかった。
この演奏はそういう要素にも事欠かないが、スピードのゆえに鬱積しない。
「シューリヒトのかなしさは疾走する。鬱は追いつけない」ってヤツだ。
ライブのモノラル録音。
1963年にモノラルってオーストリア放送協会は遅れてるなあ、と聴く前は思ったが、音は十分いい。
シューリヒトの意図は知らないが、速さが持つ多様な意味・効果を教えてくれる、そして強烈な演奏だった。
交響曲第7番ホ長調 フランツ・ウェルザー=メスト指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
1885 Version. Ed.Leopold Nowak [1954]
Franz Welser-Moest, London Philharmonic Orchestra. 27/8/91
60:49 - 19:49 20:24 8:58 11:37
EMI CLASSICS CMS5209432
CDのジャケ写で見ると少女漫画に出てくる指揮者の実写版のような容姿のウェルザー=メスト。
テンシュテットの後任でロンドン・フィルの首席指揮者、ドホナーニの後任でクリーブランド管の音楽監督と、アングロサクソン圏ばかりで稼いでる人のイメージがあったが、ネットで調べるとチューリッヒ歌劇場、ウィーン国立歌劇場の音楽監督も務めている。
超エリートなのだ。
たぶん容姿のせいばかりではないと思うが、CDは少なめでDVD/BDなど映像商品の方が多い(オペラ指揮者だからというのはあるだろう)。
わたしが持っているのはこの2枚組(ブルックナー第5交響曲とのカップリング)のCDだけだ。
ロイヤル・アルバート・ホールでのライブ録音。
速めのテンポ(第2楽章まではほぼ中庸で気持ち速め、3楽章以降はかなり速い)。
オーケストラ全体の大づかみな流れは、抑えるところは抑え盛り上げるところはきっちり盛り上げる、ツボを心得た絶妙のコントロールぶり。
しかも、さすがエリート指揮者、それにとどまらず同時に個々の声部のフレーズに表情を付け、大きな流れへの奉仕に還元されない細部の多様性を掘り起こそうとする。
ただ、個人的にはそれが小うるさく感じられて、ブルックナーはもっと鷹揚にやってくれた方がいいのに、などと思ってしまう。
それに、そういう野心的な試みは聴衆を選ぶだろう。
聴き手のキャパが小さければ、細部に気を取られて、いろんな要素が羅列され散漫に流れてゆくだけの、焦点が定まらない演奏に聞こえかねない(あっちでニョロニョロ、こっちでウッフン)。
わたし自身、特に第1楽章でそういう印象を受けた。
終楽章は野心を抑えてわかりやすく盛り上げ、ロンドンの聴衆からせっかちで盛大な拍手を獲得している。
交響曲第6番イ長調 オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
1881 Version. Ed. Robert Haas [1935]
Otto Klemperer, New Philharmonia Orchestra. 6-19/11/64
54:54 - 17:02 14:42 9:23 13:48
EMI Classics CD 5 62622 2(リンク先と同演奏別商品)
Otto の名はドイツ人に多い。
なんでドイツ人がイタリア語のしかも八郎ばかりなんだろう?
かねがね不思議に思っていたが、実は古高ドイツ語由来の語で「8」とは関係ないようだ。
昔、バイエルン放送交響楽団とのベートーヴェン第5交響曲のひたすら虚空に円を描き続けるような第1楽章にビックリして以来、クレンペラーは注目の指揮者ではある。
でもその後「これは」という録音にあまり出会っていない(「ペトルーシュカ」には興奮した記憶がある)。
たぶんクレンペラーのことが全然わかってないのだと思う。
そう思いながらも以下勝手な思い付きを書く。
巨大なものがムクムク立ち上がるような威圧的なフォルティシモはこの指揮者の特徴だろう。
フォルテの意味がただの音の強さでなく生命力の強さとして理解され表現されているかのようだ。
聴き手へのインパクトが強い、というか強すぎることがある。
たとえば第1楽章第2主題が2巡目に長調で演奏されるところ。
光溢れる輝かしい自然に心躍る、などというレベルを超え、五感が飽和するほどの田舎のむき出しの生命力が突き付けられるようで、むしろ辟易する。
朝作った味噌汁の残りを昼に温めて食べると美味しいけど、温め直した時に一瞬立ち昇る濃縮された味噌臭が嫌いだ。
その尾籠な匂いを思い出す。
クレンペラーは音楽を構造的に聴かせようとした指揮者ではないかと推測するが、そんなフォルティシモの暴力性に振り回されてそれどころではなかった、というのがわたしの感想だ。
交響曲第5番変ロ長調 オイゲン・ヨッフム指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
1878 Version Ed. Leopold Nowak - No significant difference to Haas [1951]
Eugen Jochum, Royal Concertgebouw Orchestra. 30-31/5/64
75:54 - 20:54 18:55 12:41 23:04
Philips CD 464 693-2(リンク先と同演奏別商品)
ヴァントも録音があるオットーボイレン修道院でのライブ録音。
これの前に聴いたケーゲルとは音の良さもオーケストラの安定感も段違いだ。
演奏はテンポの振幅が大きい。
第1楽章冒頭を非常に遅く演奏しているのは「この交響曲全体のイントロでもあるんだよ」ということだろうが、それ以外の極端なテンポ操作のほとんどがわたしには意味がわからず(ノレず)、ムラっ気のある人が好き勝手やっているのに付き合わされているような気がしてくる。
特に速いところは滑稽でさえある。
誉れ高き名盤らしいが好みでない。









