ブルックナー音盤日記

録音データは https://www.abruckner.com/discography1/ にお世話になってます

交響曲第6番イ長調 オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

ブルックナー:交響曲第6番(ロベルト・ハース版)(SACDハイブリッド)

1881 Version. Ed. Robert Haas [1935]

Otto Klemperer, New Philharmonia Orchestra. 6-19/11/64

54:54 - 17:02 14:42 9:23 13:48

EMI Classics CD 5 62622 2(リンク先と同演奏別商品)

 

Otto の名はドイツ人に多い。

なんでドイツ人がイタリア語のしかも八郎ばかりなんだろう?

かねがね不思議に思っていたが、実は古高ドイツ語由来の語で「8」とは関係ないようだ。

 

昔、バイエルン放送交響楽団とのベートーヴェン第5交響曲のひたすら虚空に円を描き続けるような第1楽章にビックリして以来、クレンペラーは注目の指揮者ではある。

でもその後「これは」という録音にあまり出会っていない(「ペトルーシュカ」には興奮した記憶がある)。

 

たぶんクレンペラーのことが全然わかってないのだと思う。

そう思いながらも以下勝手な思い付きを書く。

 

巨大なものがムクムク立ち上がるような威圧的なフォルティシモはこの指揮者の特徴だろう。

フォルテの意味がただの音の強さでなく生命力の強さとして理解され表現されているかのようだ。

聴き手へのインパクトが強い、というか強すぎることがある。

 

たとえば第1楽章第2主題が2巡目に長調で演奏されるところ。

光溢れる輝かしい自然に心躍る、などというレベルを超え、五感が飽和するほどの田舎のむき出しの生命力が突き付けられるようで、むしろ辟易する。

 

朝作った味噌汁の残りを昼に温めて食べると美味しいけど、温め直した時に一瞬立ち昇る濃縮された味噌臭が嫌いだ。

その尾籠な匂いを思い出す。

 

クレンペラーは音楽を構造的に聴かせようとした指揮者ではないかと推測するが、そんなフォルティシモの暴力性に振り回されてそれどころではなかった、というのがわたしの感想だ。